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内郷丸遭難事件 リンク集

内郷丸遭難事件(うちごうまる-そうなんじけん)は、1954年(昭和29年)10月8日昼過ぎ、神奈川県津久井郡与瀬町(現在の相模原市相模湖町与瀬)にある相模湖において発生した海難事故である。定員の4倍以上の客を乗せた遊覧船の内郷丸が運行中に水が船内へ入り込んだことによって沈没、22名の死者を出した。

修学旅行(遠足)で相模湖を訪れていた麻布中学校の2年生の生徒227人及び引率の教員は、1954年10月8日に相模湖の発電所やダム等を見学する予定で現地を訪れたが、雨が降り天気が悪かった為に見学の予定を中止して相模湖畔近くにある茶店にて昼食を摂っていた。その時に相模湖を周遊する遊覧船に乗らないかと茶店にいた者に勧められ、生徒のうち遊覧船への乗船を希望する者だけ船賃を各自が払って遊覧船に乗る事になった。 結局、最大人員が旅客19名、船員2名の合計21名の設計でさらに後述のとおりの改造を施された遊覧船の内郷丸へ、遠足に来た中学校一行のうち引率の教員2名と生徒75名が乗り込んだ。後日の海難審判庁(当時)の調べで、この教員2名と生徒75名の総重量は約3,660kgに及んだことが判っている。 12時55分頃に乗船を希望する生徒らの乗船が終わり、内郷丸は沖に向けて出航。この時点で船を操舵していた船頭は、出航時に客席を見て「かなり乗ったとは思うが平素と別に変ったことは感じないし心配ない」と判断し、そのまま船を岸から沖へ進めてしまったとの事である。しかし、定員を大幅に超過して乗船したために乾舷が下がった結果、内郷丸の船尾にあるエンジンの排気ガスを外へ出す管が水に漬かっており、後日の海難審判庁(当時)の調べでは、この時点で毎分23kgの割合で浸水が始まり、船尾側へのトリムが暫時増えつつあったと推定している。岸にいた船主は、内郷丸が出航した直後にこのことに気づいて沈没の危険がある事を察知し、すぐに大声で内郷丸に戻るよう叫び続けたが、その声は船を操縦する船頭の耳には届かなかった。 内郷丸は船尾の排気管付近からの浸水が続いたまま、出航して数分ほど過ぎたころから客席の後部の床が水に浸りはじめ、やがてその水は水位を増して生徒達は靴が濡れるのを避けるため椅子に座ったまま足を上げたりする状態となった。やがて後部から浸水した水は船内全部の客席の足元にも現われ、生徒の中には水に濡れないように座席の上に立ち上がる者や船尾の展望台へ逃れる者が現れた。 この時になって内郷丸の船頭は、ようやく客席からの「水だ」の声で自分の操縦する船が浸水して沈没の危機にある事を知った。船頭はすぐにエンジンを停止すると共に救難を求めるために船の音響信号を鳴らしたが時すでに遅く多量の水が船尾の船縁を越えて船内に一気に侵入し、午後1時5分頃に内郷丸は船尾から沈没した。 沈没現場は岸から100m、水深は約25mの地点であり、救援に駆けつけた船や沈没と同時に脱出した船頭の救助作業により、教員及び生徒53名は救助されたものの、泳げない生徒や船内にそのまま閉じ込められた生徒が多数でて結果として22名もの生徒が死亡する惨事となってしまった。

この事件は海難審判の対象となり、横浜地方海難審判庁(当時)において船主と船頭を指定海難関係人に指定して1954年11月9日に第1回審判が開かれた。その後、1955年(昭和30年)3月4日に指定海難関係人の過失を認定して「船舶所有者(船主)の業務上の過失と船頭の運航に関する職務上の過失とによって発生した」とする裁決が言い渡された他、指定海難関係人に対して関係法令及び定員の順守を要求し、船舶の前方または後方に人員が偏ることの危険に係る指摘を主な内容とする勧告書が出され、第一審で確定した。 なお、第1回審判の様子について海難審判所のホームページでは「傍聴席は、中学校の生徒の家族をはじめ、報道関係者など多数の傍聴者でうまり、一種異様な雰囲気に包まれていた。」と書かれている。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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